帰り道で聞いた言葉
紫鏡という言葉を聞いたのは、小学五年の冬だった。
学校からの帰り道、川沿いの土手を、同じ組のナオと並んで歩いていた。ナオは急に立ち止まって、紫鏡って知ってる、と聞いた。私が首を横に振ると、ナオは少し得意そうに説明した。紫鏡という言葉を、二十歳になるまで覚えていると死ぬ。いま聞いたから、もう覚えちゃったね、と。
「そんなの、忘れればいいだけでしょ」
私が言い返すと、ナオは首をかしげて、忘れようとすると、かえって忘れられないんだって、と言った。
それからナオは、言葉のもとになったという女の子の話をした。その子はお気に入りの手鏡を、紫の絵の具で塗ってしまった。洗ってもこすっても、色は落ちなかった。その子は鏡のことを悔やんだまま、二十歳になる前に死んでしまったのだという。
私はコートのポケットの中で、小さな手鏡を握っていた。五年生になったときに母が買ってくれた、白い縁の折りたたみの鏡で、どこへ行くにも持ち歩いていた。ナオの話を聞きながら、その縁を指でなぞっていたのを覚えている。
消す言葉もあるらしいよ、とナオは付け足した。白い水晶、と心の中で三回言えばいい。ピンクの鏡だという子もいるし、水色の鏡だという子もいる。どれが本当なのかは、ナオも知らなかった。
その夜、布団に入ってから、私は紫鏡のことを考えないようにした。考えないようにと思うたびに、その四文字が頭に浮かんだ。羊を数えても、明日の時間割を思い出しても、やめたとたんに同じ言葉が戻ってきた。ナオの言ったとおりだった。
次の日曜、私は二年生の妹のユイに、紫鏡の話をした。この言葉を一人で抱えているのが嫌だった。誰かに話せば、少しは軽くなる気がしたのだ。話し終えると、ユイは泣き出して、二十歳まで覚えてたら死ぬの、と何度も聞いた。母に見つかる前に泣きやませたくて、私はナオから聞いた消す言葉を教えた。三つの中から白い水晶を選んだのは、白がいちばん紫から遠い色に思えたからだった。
「寝る前に、心の中で三回言えば大丈夫」
ユイは涙をふいてうなずき、その晩から、布団の中で唇を小さく動かすようになった。私自身は、一度も言わなかった。二十歳まではまだ九年もある。そのあいだに、こんな言葉は自然に忘れるはずだと思っていた。
最初におかしいと思ったのは、それから数日たった夕方だった。自分の部屋で前髪を直そうと、ポケットから手鏡を出して開いた。鏡に映った私の顔のまわりが、うっすら紫がかって見えた。窓の外は日が沈んだばかりで、空が赤紫に染まっていた。その色が映りこんだのだと思って、私はすぐに鏡を閉じた。
二十歳になる前の夜
忘れるはずだった言葉は、忘れなかった。
中学でも高校でも、何か月も思い出さない時期はあった。けれど、紫色のものを見ると戻ってきた。文化祭の紫の垂れ幕や、母が台所に置いた茄子や、コンビニの棚の紫のお菓子の袋を見たときに。誕生日が来るたびにも戻ってきた。十八になった年より、十九になった年のほうが、思い出す回数はずっと多かった。二十歳が近づくほど、言葉のほうからこちらへ寄ってくるようだった。
私とユイの部屋は、ふすま一枚で仕切られていた。ユイは中学生になっても、寝る前に唇を動かしていた。ふすまが少し開いていると、暗がりの中でユイの口が動くのが見えた。白い水晶と言っているのだと、私には分かった。私はいつも三回まで数えて、目をそらした。自分の思いつきで選んで教えた言葉を、妹が何年も守っている。それを見ているのが、少しつらかった。
二十歳の誕生日の前の晩、私は十一時に布団に入った。日付が変わる前に眠ってしまえば、その瞬間に紫鏡のことを考えずに済む。そう考えたからだった。
けれど眠れなかった。目を閉じるとあの四文字が浮かび、寝返りを打つたびにまた浮かんだ。十一時半を過ぎたころ、私はあきらめて起き上がり、机の明かりをつけた。
机の上には、あの白い縁の手鏡が閉じたまま置いてあった。九年たって縁は少し黄ばんでいたが、私はまだそれを使っていた。
私は鏡を手に取った。開いて、ただの古い鏡だと確かめられれば、紫鏡もただの言葉に戻る。そう思ったのだ。
開いた鏡には、机の明かりに照らされた私の顔が映っていた。その顔のまわりのガラスが、紫に見えた。九年前の夕方のような、うっすらとした色ではなかった。絵の具を薄く塗り広げたような、むらのある紫が、ガラスの縁から内側へかかっていた。
机のスタンドは白い光で、カーテンも閉めてある。紫が映りこむものは、部屋のどこにも無かった。私は親指でガラスをこすった。指の腹に冷たいガラスが触れるだけで、色は少しも落ちなかった。洗ってもこすっても落ちなかった、というナオの話が、そのまま頭に浮かんだ。
目覚まし時計の針は、十一時五十六分を指していた。
鏡を閉じて机に伏せても、紫鏡という言葉は頭から出ていかなかった。さっきより、はっきりしていた。このまま零時になれば、私は二十歳になったその瞬間に、この言葉を覚えていることになる。
消す言葉は、一つしか知らなかった。九年前に私が思いつきで選んで、妹に渡した言葉だ。本当に効くのかは分からない。けれどユイは、それを九年間毎晩唱えて、何事もなく十五歳になっている。ほかに頼れるものは無かった。
私は伏せた鏡を両手で押さえ、目を閉じた。
白い水晶。
一回目は、喉の奥でつかえたようになって、うまく思い浮かべられなかった。二回目のとき、ふすまの向こうで、ユイが寝返りを打つ音がした。私は三回目を、ゆっくり、一文字ずつ心の中で言った。
白い水晶
目を開けると、時計の針は零時を一分過ぎていた。私は息をしていた。手も足も、いつもどおりに動いた。
伏せていた鏡を起こして、そっと開いた。机の明かりと、青白い私の顔が映っているだけだった。ガラスのどこにも紫は無く、親指の腹にも色は付いていなかった。
紫鏡という言葉は、そのときも頭の中にあった。二十歳になった私は、その言葉をはっきり覚えていた。それでも、何も起きなかった。白い水晶が効いたのか、初めから何も無かったのかは分からない。あの晩に見た紫が何だったのかも、いまも分からない。
翌朝、台所でユイが、おめでとう、と言った。それから声を落として、言えた、と聞いた。
私は驚いた。誕生日の前の晩のことは、ユイに一度も話していなかった。
「白い水晶。初めて言った」
私がそう答えると、ユイは、よかった、と笑った。それから、お姉ちゃんがずっと言っていないのを知っていたから、毎晩、自分の分を言ったあとに、もう三回、お姉ちゃんの分も言っていた、と打ち明けた。私が三回まで数えて目をそらしていたあのとき、ふすまの向こうで、ユイの唇はまだ動いていたのだ。
私はしばらく何も言えなかった。一人で抱えるのが嫌で妹に押しつけた言葉を、妹は九年間、私の分まで抱えていた。
四年後、ユイの二十歳の誕生日の前の晩、私は実家に帰って、ユイの部屋で一緒に起きていた。十一時五十七分になると、二人で並んで目を閉じた。私は自分の分ではなく、ユイの分を三回、心の中で言った。目を開けると、ユイもちょうど目を開けたところで、時計の針は零時を過ぎていた。
あの白い縁の手鏡は、いまも机の引き出しの奥にしまってある。捨てることはできないが、夜には開けない。
覚えていることが条件になる噂
この物語で語り手を追いつめたのは、鏡そのものではなく、ひとつの言葉を覚えていることだった。忘れようとするほど言葉は戻り、二十歳が近づくほど思い出す回数が増えた。頼れたのは、打ち消す言葉だけだった。
紫鏡は、紫鏡または紫の鏡という言葉を二十歳まで覚えていると死ぬ、または不幸になる、と語られてきた都市伝説である。鏡を見ることではなく、言葉を覚えていることが条件になっている。この物語の姉妹とその事情は、記録には無い。
土地と話し手で変わる決まり
国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースには、雑誌『下野民俗』の1999年の号に載った報告をもとに、栃木県の高校生が語った紫の鏡の話が収められている。同じ報告の中でも、二十歳まで覚えていると不幸になる、死んでしまう、16歳まで覚えていると死ぬらしい、と話し手ごとに中身が違う。これが噂の最初の記録かどうかは確認できなかった。
まとめサイトには、年齢を13歳や23歳、16歳や26歳とする地域もあると書かれている。由来の話も一つではない。手鏡を紫の絵の具で塗って色が落ちず、悔やんだまま亡くなった少女の話は関東の型、成人式の前後に亡くなった女性の遺品に紫の手鏡があったという話は関西の型として紹介されている。どちらも裏付けのある記録ではなく、言い伝えとして扱うのがよい。年齢や結果、由来は土地ごとに変わっても、言葉を覚えていることが条件になる点は変わっていない。
忘れられないことが怖さになる
解説サイトは、忘れようとするほど思い出してしまうことを、この噂の怖さの核に挙げている。考えないようにするほど頭に浮かぶ、という経験は多くの人にある。紫鏡は、聞いた人の頭の働きをそのまま怖さに変えている、とも読める。
紫を打ち消す色
打ち消す言葉として伝わるのは、白い水晶、ピンクの鏡、水色の鏡などである。どれも、紫とは別の色の名前になっている。解説サイトの一つは、青い鏡や赤い鏡といった色違いの噂もあると書いている。この噂では、色の名前そのものが呪いにもなり、お守りにもなる、と読むこともできる。
忘れることは自分で決められないが、別の色を3回唱えることならできる。白い水晶という言葉は資料に在るものだが、白がいちばん紫から遠いから選んだという理由は、この物語で足したものである。
物語の姉は、紫に見えた手鏡を前にして、白い水晶を三回唱えた。紫鏡の怖さは、忘れるという自分では決められないことに命が懸かっている点にあり、打ち消す色の言葉は、その中で自分にできる数少ない行いとして語られている。
