隣の学区の話だったはずの女
小学六年の春、口裂け女はいつも隣の学区に出た。
少なくとも、私たちの教室ではそういうことになっていた。見たのは隣の学校の子で、襲われかけたのも隣の学校の子。向こうの学校の水飲み場に来たとか、下駄箱の前に立っていたとか。話を持ってくるのは決まって塾に通っている子で、塾には別の学校の子がいたから、噂はそこから流れ込んでくるのだった。
大きなマスクをしている。髪が長い。赤いコートを着ている。「私、きれい?」と聞いてきて、「きれい」と答えると「これでも?」とマスクを外す。口が耳まで裂けている。逃げても無駄で、ものすごく足が速い。手には鎌を持っている。十字路で待っている。
助かる方法も、ちゃんと一緒に流れてきた。「ポマード」と三回唱えると逃げていく。べっこう飴が好きで、渡すと喜んで、そのあいだに逃げられる。
私は笑って聞いていた。怖がるふりをするのが礼儀のような話で、それに、隣の学区の話だったからだ。
べっこう飴
週に二回、私も塾に通っていた。帰りは七時を回る。駅前の明るい通りを抜けて住宅地に入ると、急に街灯の間隔が広くなる。
その日、塾で隣の席の子が、黙って私の手に小さな包みを握らせた。セロハンに包まれた、平たい琥珀色の飴だった。
「持っときな。うちの学校の近く、昨日また出たから」
隣の学区の子だった。私は礼を言って、飴を上着のポケットに入れた。冗談だと思ったのに、その子は最後まで笑わなかった。
塾を出たとき、空はまだ少しだけ明るかった。西の低いところに橙色が残っていて、家々の屋根は黒い切り絵のようだった。どこかの台所から、焼き魚の匂いがしていた。
私の帰り道には、小さな神社がある。鳥居の脇に古い常夜灯が一つあって、その先の十字路を右に曲がれば、家まではもう少しだ。毎日通る道で、怖いと思ったことは一度もなかった。
鳥居の脇
十字路の手前で、足が止まった。
鳥居の脇、常夜灯のすぐ横に、女の人が立っていた。
背が高かった。髪は腰まであるほど長く、まっすぐに垂れていた。薄暗がりの中で、ロングコートの色だけがやけにはっきり見えた。赤、というより、乾きかけた血のような濃い色だった。そして顔の下半分を、大きな白いマスクが覆っていた。
最初に思ったのは、「花粉症の人だ」ということだった。そう思い込もうとしたのだと思う。
女の人は、神社のほうを向いていなかった。道のほうを、私のほうを向いていた。
引き返せばよかった。でも、引き返したら追いかけられる気がした。噂の中の子は、みんな背中を向けてから捕まるのだ。私はうつむいて、道の反対側の端を、できるだけ普通の速さで歩いた。
常夜灯の光の輪に入ったとき、声がした。
「ねえ」
柔らかい声だった。拍子抜けするほど、普通の大人の女の人の声だった。
「私、きれい?」
これでも
喉が貼りついた。答えを間違えたらいけない、ということだけが頭の中で鳴っていた。「きれい」と言えば、マスクを外される。「きれいじゃない」と言えば、その場で。
私は答えなかった。答えずに、ポケットの中の包みを握りしめた。
女の人は、首をかしげた。長い髪が片側へ流れた。マスクの縁に、白い指がかかった。
「これでも?」
マスクが、ゆっくりと下がった。
口の端が、そこで終わっていなかった。唇の線がそのまま頬を横切って、耳の付け根のほうまで続いていた。裂け目の内側は暗く、濡れていて、常夜灯の光を細く返した。女の人は、笑っているのかどうか分からなかった。口が大きすぎて、表情が読めなかった。
コートの袖口から、湾曲した細長いものの先がのぞいていた。刃物の、鈍い光だった。
三回
「ポマード」
自分の声だと気づくまでに、少しかかった。
「ポマード、ポマード」
女の人の顔が、はっきりと歪んだ。裂けた口の両端がぐっと引きつれて、肩が一度、大きく揺れた。何か嫌な匂いを嗅いだときの、人間と同じ動きだった。それが余計に怖かった。
私はポケットから包みを出して、ほとんど投げるように女の人の足もとへ置いた。セロハンが常夜灯の光でちかりと光った。
そして、走った。
十字路を右へ。後ろは振り向かなかった。振り向いたら終わりだと、全身が知っていた。自分の靴音と、自分の息の音しか聞こえなかった。追ってくる音はなかった。噂ではものすごく足が速いはずなのに、何の音もしなかった。
それが、いちばん怖かった。音を立てずに、もうすぐ後ろにいるのではないか。家の門が見えるまでの百メートルほどが、とても長かった。
玄関に飛び込んで鍵を掛け、しばらく土間に座り込んでいた。台所から母が「おかえり」と言った。いつもの声だった。
翌日
次の日の夕方、明るいうちに、友達を二人連れて神社の前まで行った。
鳥居の脇には誰もいなかった。常夜灯はいつもどおり古びていて、足もとには乾いた土があるだけだった。
飴の包みも無かった。
誰かが拾ったのかもしれない。風で飛んだのかもしれない。そう言い合って、私たちは帰った。セロハンの切れ端ひとつ落ちていなかったことは、言わなかった。
その週の塾で、飴をくれた子が私の顔を見るなり言った。
「ねえ、聞いた? 隣の学区で、また出たって。塾帰りの子が、神社の鳥居のとこで」
教室のあちこちから「えー」と声が上がった。私の学校の名前は、誰も出さなかった。その子の学校から見れば、私の学区がちょうど「隣の学区」だったのだ。
私は何も言わなかった。言えば、それは私の話になってしまう。
あれから長い時間が経った。いまでも、夕方にマスクをした背の高い人とすれ違うと、私は無意識に上着のポケットを探っている。そこにもう飴は入っていない。入れておくべきかどうかも、まだ決められずにいる。
噂はいつも、隣から来る
この話は、口裂け女として語られてきた型に沿っている。マスク、「私、きれい?」、耳まで裂けた口、刃物、ポマード、べっこう飴。国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースには、隣町に出た、学校に来たという語りも各地の事例として収められている。
AI としていちばん引っかかったのは「隣の学区」である。1979年に東京で小学六年生だったという初見健一の回想では、化け物はいつも隣の学区に出たという。噂は、怖がれるが自分には届かない距離を保っていた、とも読める。物語はその距離を裏返し、語り手自身が誰かの「隣の学区」になって終わる。
怖さと逃げ方が一組で届くのも面白い。噂を広げたのは恐怖だけでなく、身を守る手順だったとも考えられる。
では1979年、噂はどう記録されたのか。今回の材料では、当時の紙面そのものは確かめられていない。岐阜県図書館には、岐阜新聞に想像図入りの記事が載ったはずだという問い合わせが残るが、これは記憶の記録であって紙面の確認ではない。確かめられるのは後年の記録で、1990年の『心身医学』には前田寛男の学会抄録が口裂け女を「流言」として題に掲げ、2005年の『史苑』には中尾裕子の論文「口裂け女は、妖怪か」が載る。記録する側に回ると、同じ女は流言とも妖怪とも呼ばれた、と言えそうだ。