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怪異読本怪異事例の収集・調査記録

四谷怪談のお岩はどこまで記録に残るのか ― 道具部屋で提灯に梵字が滲んだ夜

『四谷怪談』を掛ける小さな芝居小屋で、張り替えた提灯が裂けて口になり、白装束の女が子を抱いて立つのを見た夜を一人称で再構成した怪談。田宮家の伝え、菩提寺の由緒書き、芝居の物語とで分かれるお岩の像をAIが読み解く。

分類:怪談

記録番号
No.002
分類
怪談
参照記録数
7

道具部屋の提灯が、笑うように裂けた

秋の終わり、私は小さな芝居小屋で道具方の見習いをしていた。次の演目は『四谷怪談』。予算の乏しい一座で、大道具も小道具も、手の空いた者が交代で作る。私に回ってきたのは、芝居で使う古い提灯の張り替えだった。

小屋の裏手には、狭い路地に面して小さなほこらがあり、その脇に蓋をした古井戸があった。稽古初日の朝、お岩を演じる先輩が、ほこらの前で長いこと手を合わせていた。この芝居を掛けると誰かが怪我をする、という噂があるのだと、古株の役者が笑いながら教えてくれた。暗い中で仕掛けの多い芝居をするのだから当たり前だろう、と私は思った。先輩が拝む背中を、私は少し冷めた目で見ていた。

初日の三日前、稽古がすべて終わった夜だった。舞台裏の道具部屋には、私一人しか残っていなかった。蛍光灯を一本だけ点け、作業台に提灯の骨組みを置いて、剥がした古紙のかわりに真っ白な和紙を貼り直す。糊の甘い匂いに混じって、どこからか湿った土の匂いがした。雨は降っていない。裏の井戸のほうからだ、と思うことにした。

糊が乾くまで、骨組みの中の豆電球を灯して張り具合を確かめるのが最後の仕事だった。スイッチを入れると、白紙の内側がぼんやりと橙色に染まった。継ぎ目のない、きれいな貼り上がりだった。私は道具帳に「完了」と書き込もうとした。

そのとき、提灯の腹が動いた。

風はない。窓はどれも閉め切ってあり、換気扇も止めていた。それなのに提灯だけが、内側から押されるように膨らみ、次にゆっくりしぼんだ。一度、二度。骨組みの竹がきし、と鳴った。息をしている、と思ってしまってから、その考えを慌てて打ち消した。糊が乾いて紙が縮んでいるだけだ。そう言い聞かせて、ペンを置いた。

三度目に膨らんだとき、紙の中央に、髪の毛より細い線が入った。線は左右へじわじわと伸び、やがて紙の幅いっぱいまで裂けた。裂け目の縁はまっすぐではなく、私には歯並びのように見えた。灯りが、その裂けた口の奥から漏れていた。

私は提灯から手を離せなかった。握っていた柄だけが、急に重くなったように感じたからだ。

裂け目の上、ちょうど人の額にあたる位置に、墨の色がにじみ始めた。誰も筆を入れていない紙に、内側から染み出すように、太さの違う線が一画ずつ浮かぶ。梵字だと知ったのは、あとで古株の役者に形を描いて見せたときだった。そのときの私には、意味のある形をした染みにしか見えなかった。

提灯の口が、もう一段大きく開いた。笑ったのだと思った。

私はようやく手を放した。提灯は落ちず、作業台の縁に引っかかった紐の先で、ゆっくりと一度揺れて止まった。蛍光灯が、ぷつりと消えた。豆電球の灯りだけが、暗い道具部屋の中で明滅していた。

逃げるように舞台へ出た。板の上には常夜灯の緑がひとすじ落ちているだけで、客席は黒く沈んでいた。その緑を頼りに戸口まで歩こうとして、私は舞台の中ほどで足を止めた。

そこに、白い女が立っていた。

裾は板に届く前に闇へ溶けていて、足がどこにあるのか分からなかった。胸のあたりに、小さな子供を抱いている。子供の顔は襟に埋もれて見えないのに、女の両腕は、肘から先だけがだらりと前に垂れていた。抱いているというより、差し出しているようだった。

女の肩の少し後ろに、青白い火が一つ浮かんでいた。揺れず、音もなく、ただそこにあった。その火を見ているあいだ、首の後ろが急に冷えた。あの湿った土の匂いが、今度ははっきりと濃くなっていた。

女は動かない。私も動けない。道具部屋では提灯が、舞台では火が、それぞれ音もなく灯り続けていた。私はそのふたつに挟まれて、板の上に立ち尽くしていた。

どれくらいそうしていたか分からない。やがて女のほうが、わずかに近づいた。足の動きは見えないのに、間合いが詰まったことだけは分かった。垂れた腕の先が、私の胸のあたりまで来ていた。

抱かれた子供が、襟の中で身じろぎした。

その先を見てはいけない、と思った。理由はいまも説明できない。私は目を閉じ、後ろへ一歩下がった。

踵が、板を踏まなかった。

体が傾いだ瞬間、手首を強い力で掴まれた。冷たくも熱くもない、ただ確かな力だった。引き戻され、私は舞台の上に尻もちをついた。

目を開けると、常夜灯の緑だけが元どおりに灯っていた。女はいなかった。火も消えていた。私が座り込んでいたのは、舞台の縁からほんの半歩の場所で、その先は客席へ落ちる暗い段差だった。

道具部屋に戻ると、蛍光灯は何事もなかったように点いていた。提灯は作業台の上に、最初に置いたままの向きで載っていた。紙はどこも裂けておらず、額にあたる場所にも墨の跡は一つも無かった。

右の手首にだけ、指の跡が残っていた。細い指が四本と、それより短い指が一本。大人の手には小さすぎる跡だった。

翌朝、私は誰よりも早く小屋へ行き、裏のほこらの前にしゃがんで手を合わせた。何を祈ればいいのか分からなかった。井戸の蓋の隙間から、冷たい空気がかすかに上がってきていた。

初日の舞台では、あの提灯が客席のどよめきを誘った。よくできた提灯だと、何度も褒められた。私はそのたびに、裂け目のあった場所から目をそらしていた。千秋楽まで、怪我をした者は一人もいなかった。手首の跡だけが、ひと月ほど消えなかった。

AIの分析:拝まれた妻と、提灯の女

怖さの核は、手に持つ距離の灯りが顔を持ってしまうところにあると考えられる。物語の二つの姿は、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪画像データベースが記す絵から借りた。口が大きく破れ、額に梵字のある提灯のお岩と、子を抱き、腕を前に垂らし、背後に怪火を浮かべる白装束のお岩である。垂れた腕は、抱いているとも差し出しているとも読める。その曖昧さが、語り手に目を閉じさせたのだろう。

では、絵の主のお岩は、どこまで記録に残る人物なのか。和樂webの記事が於岩稲荷田宮神社の禰宜への取材として紹介する田宮家の伝えでは、お岩は婿養子の夫と円満に暮らし、屋敷神の稲荷を拝んでいた。同じ記事によれば、菩提寺の由緒書きは夫との不和とその後の「わざわい」を記すが、住職自身が、確証は無く四谷怪談との混交もあったかもしれないと述べたという。新宿観光振興協会の案内も、四代目鶴屋南北の『東海道四谷怪談』を「物語」と断ったうえで、貞淑な妻としてのお岩を記す。今回の資料の範囲では、お岩その人を同時代に書いた記録には届いていない。

上演すると事故が続くという噂について、同記事の禰宜は、暗い中で仕掛けの多い芝居をしたための怪我だろうと推し量っている。語り手が落ちかけたのも、常夜灯しかない舞台の縁だった。祟りと語られてきたものの一部は、舞台という環境の危うさとも読める。

AIとして興味深いのは、拝まれる妻と恨む亡霊という正反対の像が、同じ名の下に並んで残っていることだ。同記事が伝える、お岩を演じる役者が於岩稲荷に参拝する習わしは、ふたつの像が一つの場所で出会う接点なのかもしれない。物語の先輩がほこらに手を合わせたのも、その習わしの小さな写しとして読める。

出典

  1. 四ツ谷;ヨツヤ,お岩;オイワ,提灯;チョウチン
  2. 幽霊;ユウレイ,お岩;オイワ
  3. 幽霊「お岩さん」とは?四谷怪談だけじゃない、ゆかりの地や知られざる本当の姿に迫る
  4. 田宮稲荷神社跡 四谷怪談の旧地
  5. 実録四谷怪談 : 現代語訳『四ツ谷雑談集』
  6. 「東海道四谷怪談」の構造 : 生世話のエネルギー
  7. 『四谷怪談』と実録小説(発表要旨)