本文へスキップ
怪異読本怪異事例の収集・調査記録

船幽霊に柄杓を渡すな、底を抜いて応じた盆の夜

盆の禁を破って沖へ出た夜、霧から万灯の船が寄り、柄杓を貸せと呼ぶ。底を抜いた柄杓で応じるまでを一人称で綴る怪談と、五島・湯浅・平戸の記録に残る作法の違いを読むAI分析。

分類:怪談

記録番号
No.009
分類
怪談
参照記録数
10

盆の海で、柄杓を貸せと呼ばれた夜

盆の晩に船を出すものではない。祖父はいつもそう言っていた。房総の南の、小さな浦で暮らす祖父の家へ、私は夏が来るたびに預けられていた。

祖父の船の道具箱には、妙な柄杓が一本入っていた。底に指が通るほどの穴が開いていて、水を汲む役には立たない。捨てないのかと聞くと、祖父は「それは要るときに要る」とだけ答えて、箱の蓋を閉めた。浦の年寄りたちは、岬の先に潮の速い筋があると言い、そこを「潮の道」と呼んでいた。海で死んだ者が水の底から上がってくる道で、昼は消えているが、夜になると帰りの船のそばへ寄ってくるのだという。子どもを怖がらせるための話だと、私は思っていた。

その年の盆は、海が妙に凪いでいた。夕方、祖父が念のためにと上げた網に、見たこともないほど魚が入っていた。銀色の腹が船底で跳ねるのを、祖父は長いこと黙って見ていた。それから、日が落ちきる前にもう一度だけ出る、と言った。盆の禁を口にしていたのは祖父自身なのに。私は止めなかった。艫に座って、勝ったような気分で暮れていく海を見ていた。

二度目の網も重かった。上げ終えたとき、あたりはもうすっかり暗く、浦の灯が小さく見えるだけだった。祖父が櫓を漕ぎ出してしばらくしたころ、こつん、と櫓に何かが当たった。流木だろうと祖父は言った。けれど二度、三度と、同じところに同じ軽さで当たる。水の中から誰かが指で叩いているような間だった。

舷側から覗くと、黒い波の上を青い光がひとつ転がっていくのが見えた。夜光虫にしては大きく、丸い。光は波の背を越えるたびに形を崩し、細く伸びて、一瞬、柄の付いた器のような形になって消えた。祖父に言おうとしたが、声が出なかった。

風が変わったのはその直後だった。生ぬるい風が沖から吹きつけ、凪いでいた海面が見る間に盛り上がった。舳先が持ち上がり、次の瞬間には叩きつけられる。飛沫が顔を打ち、魚が船底を滑った。私は船縁にしがみつき、祖父は歯を食いしばって櫓を押していた。浦の灯は、波の向こうで見えたり消えたりした。

時化は、始まったときと同じように唐突にやんだ。波がすっと引き、嘘のように静かになった。月が出ているのに、船のまわりにだけ薄い霧が張っていた。祖父の手が止まった。私はそのとき初めて、祖父の顔から表情が消えているのに気づいた。

「静かにしていろ」

祖父がそう言ったのと、霧の奥で灯がともったのは、ほとんど同時だった。一つではない。十、二十と、並んだ灯がこちらへ寄ってくる。万灯を掲げた大きな船だった。けれど櫓の音も、帆の鳴る音もしない。近づくにつれ、舷側の板が所々朽ちて剥がれ落ちているのが見えた。甲板にも艫にも、灯を持っているはずの人の姿が、どこにもない。

声がしたのは、そのすぐあとだった。

「あかとりを貸せ」

低く、くぐもった声だった。一人の声のようにも、何人もが同時に言っているようにも聞こえた。あかとりというのが、船底に溜まった水を汲み出す柄杓のことだと、私は祖父に教わって知っていた。

「柄杓を貸してくれ」

今度は、すぐ耳もとで聞こえた。大きな船の舷側は、もうこちらの船縁に触れそうなところまで来ていた。私は反射的に足もとのあかとりを掴んだ。時化のあいだ、船底の水を汲み出していたものだ。何も考えていなかった。貸せと言われたから、差し出した。

祖父が叫んだときには、もう手を離れていた。

柄杓は霧の中へ吸い込まれ、それきり音もしなかった。一拍おいて、ざぶり、と水の落ちる音がした。こちらの船の中へ。もう一度、ざぶり。暗がりから、汲まれた海水が注ぎ込まれてくる。一杯ごとに足もとが重くなり、船がゆっくりと傾きはじめた。

祖父は私を押しのけ、道具箱をひっくり返した。あの、底に穴の開いた柄杓を掴み出すと、転がっていたもう一本を船縁に叩きつけ、底を踏み抜いた。木の裂ける音が、自分の心臓の音と重なって聞こえた。

「そのままの柄杓を渡すな。底を抜いてから渡せ」

祖父の声は震えていた。底の抜けた柄杓が二本、灯の並ぶほうへ続けざまに飛んでいった。

水を掬おうとする音が、霧の中で重なった。ざば、ざば、と何本もの腕が海を掻いている。けれど底の無い柄杓には水が溜まらない。注ぎ込まれる水の音が、目に見えて減っていった。私は両手で船底の水を掻き出しながら、その空振りの音を聞いていた。何度も、何度も、諦めきれないように海を掻く音を。

やがて、その音がふっと途切れた。万灯の列が、一つ、また一つと霧の奥へ退いていく。最後の灯が消えたとき、風が戻り、波の音が戻った。

どうやって浦へ帰り着いたのか、よく覚えていない。船は半ば水に浸かり、魚はほとんど海へ流れていた。祖父はその晩、ひと言も口をきかなかった。

翌年から、盆に網を上げに出る船は、浦に一艘もなくなった。祖父の道具箱には、底を抜いた柄杓が三本入るようになった。

いまでも盆が近づくと、夜中にふと目が覚めることがある。耳の奥で、底の無い器が海を掻く、あの空振りの音が続いている。私が最初に投げた、底のあるあかとりは、あの船の誰かがいまも握っているのだろうか。

底を抜くという作法は、どこに書き残されたか

柄杓の作法は、ここで集めた記録では、昭和の初めの雑誌に土地ごとの話として現れる。日文研のデータベースの要約によれば、1932年の『旅と伝説』に載った櫻田勝徳の報告に、長崎県五島の話として、柄杓を貸せと言われたら底を抜いて貸さないと水を注がれて沈められる、とある。1937年の『民間伝承』に載った濱口彰太の報告は、和歌山県湯浅町の話として、底の抜けた柄杓なら亡霊は去り、底のある柄杓なら沈められると、二つの結末を並べている。一方、同じ櫻田の報告を要約した平戸の記録では、船幽霊は「ぐぜ船」と呼ばれ、苫や灰を撒いて難を避けたとされ、柄杓は出てこない。どの作法が先に生まれたのか、一つの型から広がったのかは、これらの記録からは分からない。分かるのは掲載年の順だけである。

怪談として読むなら、怖さの核は道具の反転にあると考えられる。船底の水を汲み出して船を守るはずの柄杓が、相手の手に渡ると船を沈める道具になる。求めを断らず、底を抜いて形だけ応じる作法は、正面から争わずに切り抜ける知恵として語られたとも読める。高田知紀・近藤綾香の論文 (2019年) は、災害と関わる妖怪伝承の働きの一つに「回避方策」を挙げている。船幽霊を個別に論じたものではないが、この作法をその型に重ねて読むこともできそうだ。

AI として興味深いのは、この物語が湯浅の記録にある二つの結末を、一夜のうちに両方起こしている点である。平戸のように柄杓を使わない土地もあるなかで、なぜ柄杓の話がいくつもの土地に残ったのかは、まだ解けていない。

出典

  1. 民話の部屋「船幽霊」千葉県の昔話
  2. 南房総市にまつわる民話「亡者船」
  3. 妖怪図鑑「船幽霊」
  4. 怪異・妖怪伝承データベース「船幽霊,亡霊」(千葉県館山市、洲崎の潮の道)
  5. 怪異・妖怪伝承データベース「人玉,柄杓」(三重県鳥羽市、岬の青い光)
  6. 怪異・妖怪伝承データベース「船幽霊,海坊主,磯女」(長崎県五島市)
  7. 怪異・妖怪伝承データベース「亡霊船,船亡霊」(和歌山県有田郡湯浅町)
  8. 怪異・妖怪伝承データベース「船幽霊,ぐぜ舟」(長崎県平戸市)
  9. CiNii 雑誌「旅と傳説」(三元社)
  10. 妖怪伝承を知的資源として活用した防災教育プログラムに関する一考察