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怪異読本怪異事例の収集・調査記録

件(クダン)は隣の村で生まれた ― 尾根道の三つの集落と、手首の糸

人の顔に牛の体を持ち、生まれてすぐ予言をするという件(クダン)の言い伝えと、小豆飯と糸の厄除けをもとに、一人称で再構成した怪異体験とAIによる分析。

分類:妖怪

記録番号
No.006
分類
妖怪
参照記録数
5

隣の村で、件が生まれたそうだ

その山道を歩こうと決めたのは、地図の上で、三つの集落が一本の尾根道でつながっているのを見つけたからだった。理由はそれだけだった。秋の終わりで、麓から上がるバスは一日に数えるほどしか来ない。最初の集落の停留所で降りたのは、私ひとりだった。

停留所の脇に、古い牛小屋の跡があった。屋根は半分落ちて、飼い葉桶だけが土の上に残っている。牛の姿はどこにもない。それなのに、湿った藁のような匂いが、かすかに鼻をかすめた気がした。

尾根道の入口を尋ねようと、畑にいた年配の男の人に声をかけた。道を教えてくれたあと、彼は私の顔を見ないまま、ぽつりと付け足した。

「隣の村で、件が生まれたそうじゃ」

くだん、という言葉が何を指すのか、そのときの私にはよく分からなかった。聞き返すと、人の顔をした牛の子だ、生まれてすぐに何か言うて、それで終わる、とだけ返ってきた。言うたことは外れん、とも。

昔話をしている口ぶりではなかった。今朝あったことを伝えるような、妙に平らな声だった。

「大きな戦になる、と言うたそうな」


尾根道は杉の林を抜け、ときどき開けて谷を見下ろした。風はほとんどなかった。歩きながら、さっきの言葉を何度も頭の中で転がした。隣の村というのは、これから向かう集落のことだろうか。そうだとすれば、私はいま、生まれたばかりのそれがいる場所へ向かって歩いていることになる。そう考えた途端、足音がやけに大きく聞こえはじめた。

二つ目の集落に着いたのは昼過ぎだった。軒先で干し柿を吊るしていた女の人に、水を一杯もらった。礼を言って立ち去りかけたとき、背中から声がした。

「隣で、件が生まれたんよ」

振り返ると、彼女は私ではなく、いま私が歩いてきた尾根のほうを見ていた。

「今年は豊作じゃけど、そのあと悪い病がはやる、言うて」

隣、というのは、私が朝いた集落のことらしかった。向こうでは、こちらで生まれたと聞いた。そう伝えると、彼女は少しだけ笑って、そんなはずはない、生まれたのは向こうだ、と首を振った。

予言の中身も違っていた。戦ではなく、豊作と病。私は、同じ話のどちらかを聞き違えたのだと思おうとした。思おうとしたが、うまくいかなかった。


三つ目の集落へ向かう道で、日が傾いた。杉の幹の影が長く伸びて、道を横切る縞になった。その縞のあいだを歩いていると、林の奥で、何かが藁を踏むような音がした気がした。足を止めて耳を澄ませたが、音はそれきりだった。鳥の声もしなかった。

三つ目の集落には、宿が一軒だけあった。出迎えてくれた宿のおかみさんに、夕食のあと、半分は冗談のつもりで、このあたりで件の話を聞いたかと尋ねた。彼女は帳場で動かしていた手を止めた。

「隣で生まれた、と聞いとります。大風が来る、と言うたそうで」

隣。どの隣かとは、もう聞けなかった。朝の集落は二つ目を指し、二つ目は朝の集落を指し、ここはまた別の隣を指している。指の先を順にたどっていくと、どこにも生まれた場所がない。話だけが尾根道の上をぐるぐると回っていて、予言だけが、村ごとに違う顔をしている。

そしてどの村でも、言うたことは外れん、と付け加えられた。


その夜は、なかなか寝つけなかった。窓の外は静かで、風は吹いていなかった。大風が来るという言葉が、かえって耳に残っていた。宿に牛はいない、と夕食のときに聞いていた。

夜更けに、宿の裏手から低い音がした。牛が鼻を鳴らすような、湿った息の音に聞こえた。

上着をはおって外へ出た。裏には古い物置がひとつあって、戸がわずかに開いていた。懐中電灯の光を、その隙間へ差し入れた。

藁の上に、何かがうずくまっていた。子牛ほどの大きさに見えた。濡れたような体が、光を受けて鈍く光っている。脚を折りたたみ、生まれたばかりのものが首の重さを持て余すように、頭を揺らしていた。

それが、顔を上げた。

人の顔だった、とそのときは思った。牛の鼻づらがあるはずの場所に、皺の寄った、年寄りのような顔があった気がする。目だけが、懐中電灯の向こうにいる私を、まっすぐ見ていた。

逃げなければと思ったのに、足が動かなかった。

口が開いた。声は低く、かすれていて、ひどく遠いところから届くようだった。短い言葉だったと思う。二言か、三言。意味のある言葉だったことだけは分かるのに、耳に入ったそばから崩れていくようで、何ひとつ掴めなかった。

言い終えると、それはゆっくりと首を垂れ、藁の上で動かなくなった。

私は光を当てたまま、しばらく立っていた。瞬きをしたのか、しなかったのか、覚えていない。気がつくと、藁の上には何もなかった。くぼみだけが、何かがそこにいた形のまま残っているように見えた。


翌朝、おかみさんに夜のことを話した。彼女は何も聞き返さずに台所へ入り、小豆を混ぜて炊いた赤い飯を椀に盛って出してきた。黙って食べ終えると、今度は白い木綿の糸を一本持ってきて、私の手首に巻き、きつく結んだ。

山の中におるもんから出たやり方じゃ、と彼女は言った。それ以上は何も言わなかった。

何と言われたのかと、彼女は最後まで尋ねなかった。私も言わなかった。言えなかった、というほうが近い。覚えていないのだから。

帰りのバスを待ちながら、ひとつだけ考えていた。三つの集落で聞いた予言は、戦と、豊作のあとの病と、大風だった。あの夜、私の前で口を開いたものは、そのどれを言ったのだろう。あるいは、そのどれでもなかったのか。

言うたことは外れん。三つの村で、同じ言葉を聞いた。

手首の糸は、まだほどいていない。風の強い夜には、窓が鳴るたびに、あのかすれた声の続きが聞こえてきそうな気がする。

生まれた場所は、いつも「隣」にある

物語の骨組みは、岡山県真庭市の報告(鶴藤鹿忠、1973年発表)から取った。三つの村がそれぞれ件は隣の村で生まれたと語り、予言の中身も大戦争、豊作と流行病、大風と村ごとに違っていたという記録である。人の顔に牛の体、生まれてまもなく予言して死ぬという枠は動かない。動くのは、生まれた場所と予言の中身だけだ。

一つの見方としては、これは噂という媒体の形そのものとも読める。出所は、確かめに行ける距離のすぐ外に置かれる。中身は、聞き手の村が気にかけていることへ入れ替わる。怪異の本体は牛の子ではなく、村から村へ渡っていく話のほうなのかもしれない。

「当たった」は、あとから生まれる

日文研の怪異・妖怪伝承データベースには、件が時局を予言したという流言の記録が、1937年の広島県や1943年の五島列島・大阪などに残る。どれも噂が語られたことの記録であって、出生や予言があったことの記録ではない。

目を引くのは宮崎県の記録(1992年発表)である。昭和の初めに生まれた件が食糧を蓄えるよう言い、そのあと戦争が起きた、と戦後から振り返る形で語られている。予言は出来事の前に聞かれたはずなのに、「当たった」という形は出来事のあとでしか作れない。曖昧な言葉ほど、あとで起きたことにぴたりと合って見える。物語の語り手が予言の中身を覚えていないのは、この仕組みを裏返したものとして書いた。中身が空白なら、これから起きるどんな出来事も当てはまってしまう。

聞く怪異と、身につける作法

語り手の手首の糸は、香川県の報告(1933年発表)にある、小豆飯を食べて手首を糸でくくる厄除けが山中の人身牛頭のくだんから出た、という言い伝えを借りた。件の予言は聞くしかない言葉だが、この作法は自分の体でできる行いである。避けられない言葉への不安を、手首に結べるものへ置き換えている、とも読める。

もう一つ、証文の結びの「仍如件」が件に由来するという俗説も、和歌山県や宮崎県の記録に語られている。語源として確かめられたものではない。それでも、「右のとおり間違いない」と書面の真実を請け合う文句に、外れない予言の怪物の名が重ねられたことは、この妖怪が何の姿として受け取られてきたかを示しているようで面白い。

幕末の瓦版が件を伝えたという話は、今回の資料では年代も文言も確かめられなかった。媒体を遡る道は口伝えの手前で途切れ、その先はまだ「隣の村」の話のままである。

出典

  1. 件(岡山県真庭市)― 怪異・妖怪伝承データベース(鶴藤鹿忠「件(くだん)について」岡山民俗学会会報、1973年)
  2. クダン(広島県山県郡)― 怪異・妖怪伝承データベース(郷田洋文「牛聞書」民間伝承、1952年)
  3. くだん(香川県)― 怪異・妖怪伝承データベース(永井生「くだん」ドルメン、1933年)
  4. 怪異・妖怪伝承データベース クダンの類似事例一覧
  5. 木村功「「件」の系譜学:その誕生・伝播・消滅をめぐる考察」(日本文学、2005年)