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怪異読本怪異事例の収集・調査記録

バンシーが泣くのはどの一族か、アイルランドの牛小屋の外で聞いた女の声

アイルランドの古い一族に付き、死の前に泣くと語り継がれてきたバンシー。南西部の農家の牛小屋の外で聞いた声をもとに再構成した一人称怪談と、どの家系に結び付けて記録されてきたかをたどるAI分析。

分類:海外怪異

記録番号
No.010
分類
海外怪異
参照記録数
4

牛小屋の外で歌っていた女

その年の秋、私はアイルランド南西部、ケリーの外れにある小さな農家で、しばらく住み込みの手伝いをさせてもらっていた。日本を発つ前に、人づてに紹介してもらった家だった。羊と乳牛を少し飼っている夫婦の家で、姓はオサリバンといった。台所の壁には、色褪せた白黒写真が何枚も画鋲で留めてあった。写っているのは知らない顔ばかりだったが、どの顔も、どこか主人に似ている気がした。

着いた日に、主人の父親が母屋の奥の寝室でほとんど眠って過ごしていることを知った。ずいぶん高齢で、もう長くはないのだと、主人は天気の話でもするような口調で言った。主人の妻は毎晩スープを温め、階段を上り下りするたびに、少しずつ疲れた顔になっていった。台所の隅の椅子には、老人の妻がいつも座っていた。背の小さな、静かな人だった。

「親父は、あの牛小屋を自分の手で建てた人だからね」と主人は言った。牛小屋は母屋から少し離れた石造りの建物で、私はそこで毎朝、乳搾りの手伝いをした。石垣に囲まれた草地の向こうは、晴れた日でも灰色にかすんで見えた。

最初の夜は、風の音以外、何も起きなかった。窓枠が鳴り、遠くで羊が一度だけ鳴いた。慣れない寝床のせいか、私は何度も目を覚ました。

二日目の夜、私は納屋の脇にある離れの小部屋で眠っていた。日付が変わる少し前、外から声が聞こえてきた。低く、長く伸びる声だった。言葉にはなっていない。伸びて、ふっと途切れて、また同じところから始まる。女の人の声だ、と思った。泣いているようにも、歌っているようにも聞こえた。

最初は、風が石垣の隙間を抜ける音だと思おうとした。けれど風の音なら、あんなふうに息継ぎはしない。

声は牛小屋のあたりから聞こえているようだった。私は上着を羽織り、懐中電灯を持って外に出た。冷たい土の匂いがした。

石垣の向こうには誰もいなかった。牛小屋の扉は閉まったままで、中の牛たちは静かにしていた。それなのに、外に出たとたん、あの声は止んでいた。私はしばらく草地を照らしてから、自分に言い訳をして部屋へ戻った。

戸を閉めると、また聞こえ始めた。今度は、離れの窓のすぐ外から聞こえるような気がした。私は布団を頭までかぶり、朝まで窓のほうを見なかった。

翌朝、朝食の席でそれとなく尋ねてみた。夜中に誰か外を歩いていなかったか、女の人の声を聞かなかったか、と。主人は首を振った。妻も何も聞いていないと言った。ただ、老人の妻だけが、パンにバターを塗る手を止めた。何も言わず、しばらく窓の外を見ていた。

その日一日、私は落ち着かなかった。乳搾りの最中にも、牛小屋の壁の向こうに誰かが立っているような気がして、何度も振り返った。

三日目の夜、私は明かりを消さずに起きていた。帰ろうか、とも考えた。けれど、この家の人たちが何も聞いていないのなら、私が騒ぐ理由はない。そう決めて、窓のそばに座った。

日付が変わるころ、風に混じって、あの声が近づいてきた。今度は、はっきりと聞き取れるほど近かった。私は窓の外に目をやった。

石垣のそばに、女が立っていた。若く、驚くほど白い肌をしていたように見えた。長い髪が風に流れ、灰色の外套をまとっていた。濡れた草の上に立っているのに、その輪郭だけが闇から浮いて見えた。優しい節で、静かに歌っているようだった。彼女はそこに立ったまま、母屋の、老人の眠る部屋の窓のほうを見上げていた。

窓ガラス一枚を隔てて、私は息を止めていた。こちらを見られたら終わりだという気がした。

そのとき、もう一つ、声が重なった。

最初のものよりも低く、しわがれた声だった。石垣のさらに向こう、闇の中から聞こえてくる。節というより、何かを罵るように、途切れ途切れに叫んでいる。若い女の歌う声と、その老いた声とが、同じ夜の中で、溶け合うことなく並んで響いていた。

私は動けなかった。どれくらい時間が経ったのか分からない。やがて二つの声は、潮が引くように遠ざかっていった。石垣のそばには、もう誰もいなかった。

明け方、母屋のほうで物音がした。階段を下りてくる、ゆっくりした足音だった。老人は、眠ったまま息を引き取ったという。

その日の午後、私は台所で老人の妻と二人きりになった。思い切って、夜に見たものを話した。彼女は驚かなかった。しばらく黙ってから、ひと言だけ言った。

「あの子は、ずっと前からこの家についているの」

「でも、もう一つ声がしました」と私は言った。

彼女は窓の外を見たまま、それには答えなかった。

葬儀が終わった夜、荷物をまとめながら、私は牛小屋のほうをもう一度見た。誰もいなかった。石垣の向こうの草地が、風にざわめいているだけだった。

いまでも分からないことが残っている。あの家に生まれ育った人たちは、誰もあの声を聞かなかった。血のつながらない私だけが、窓越しに若い女の歌を聞き、そしてもう一つの、老いた声を聞いた。あの二つは、同じものだったのだろうか。それとも、同じ夜、同じ石垣のそばで、別々の何かがあの家を見ていたのだろうか。

泣き声は、どの家に付いてくるのか

バンシー (banshee) は、アイルランド語の bean sí に由来するとされる。ここでは日本の言葉に置き換えず、死を知らせに来る、家に付いた女という輪郭のまま読む。

表題の問いに、二つの記録は少し違う線の引き方をしている。McAnally の『Irish Wonders』は、バンシーは古い家系にだけ付き、子孫が落ちぶれて小作人になっても最後の一人まで離れないと書き、MacCarthy、O’Neill、O’Sullivan、O’Flaherty などの名を挙げる。O’Donnell の『The Banshee』は、ミレシウス系の血筋に結び付くという説を紹介しつつ、元はノルマン系のジェラルディン家が、土地に深く溶け込んだために例外として含まれるという記述も引く。系譜で引いた線でさえ、血だけでは閉じていない。

物語で重なった二つの声は、McAnally が分けて書いた二つの型に近い。家に好意的なものは若く美しい姿で優しく歌い、敵意を持つ「憎悪のバンシー」は歪んだ顔の老婆の姿で呪いを叫ぶという。別々の型を一つの夜に並べると、送る声と呪う声のどちらが本当の顔なのか、という問いが残る。

AI として気になるのは、聞く者の位置である。O’Donnell が取り上げる Ann, Lady Fanshawe の逸話でも、窓辺で声と姿を経験したのは館の客で、一族の血縁者ではなかったとされる。家に付く存在なのに、気配をとらえるのは外から来た者だという構図が、記録と物語の両方に見える。

別の見方もできる。石垣を抜ける風や、看取りを待つ家の張り詰めた空気のなかでは、長く伸びる音が泣き声に聞こえやすいのかもしれない。死の前に聞かれたという語りは、出来事のあとで夜の記憶が結び直されたものとも考えられる。

出典

  1. The Banshee (Elliott O'Donnell)
  2. Irish Wonders (D. R. McAnally, Jr.)
  3. The Banshee: The Irish Supernatural Death-Messenger (Patricia Lysaght)
  4. Fairies, Demons, and Other Imaginary Beings in Irish Literature: A Study — Entries II Banshee-Daoine maithe (矢野淳, Bekkers Marjo)